川上の鉱山全盛期から終演まで、一筋で生きた村人の話

川上の鉱山全盛期から終焉まで、一筋に生きた村人の話  
「一攫千金夢見たことも・・・あったね」

  小林久人氏談 大正10年生まれ  梓山在住


<鉱山との出会い>
なんと言いましてももう六十数年前の話になってしまい、当時のことを思い出して語ろうと思います。

昭和11年に尋常高等小学校を卒業して、その時今の梓湖グランド当たりに名古屋からきた製材製函工場があって、学校終わると同時に勤めました。
しかし丁度その頃鉱山が始まって、給料が違うから鉱山にいかねえかいってわけで鉱山に入ったわけです。
その鉱山は昭和12年に今の町田市の市民休暇村がある所に、東京の小川さんという人が入って鉱山を始めました。ベテランの鉱山師も入ってきていて、私なんかもまだズ−デ−今の中学校2年くらいなもんだったけど、それでもやっているうちに教えていただいてまあ、何とかやっていました。

<鉱山の詳細>
その鉱山は今の町田市の休暇村のある所から上480mの林の中に露頭が見つかって、露頭面が褐鉄鉱で裏が磁鉄鉱でした。試験掘りをしてみたら物凄く質のいい鉄鉱石が出てきました。
掘り方はダイナマイトで爆破した後、高さ6尺幅5尺の木組みをして坑道を作り昭和12年から17年頃までは大きな機械はなかったのでノミと槌の手掘りでコチンコチンと掘っていました。
作業したのは60人くらいで秋田あたりからも専門の掘り手がきていてね。ノミを研ぐ専門の鍛冶屋さんも入っていましたね。
掘り方は一尺くらいまず下を掘ってそれから上を掘って下へ落としてまた下を掘るっていうやり方でした。
抗口は狭くても中へ入っていくと洞窟になっていて部屋くらいの大きさの所もありました。鉱脈は全面にあったね。
磁鉄鉱と褐鉄鉱は背中合わせになってて、磁鉄鉱の方は持ち上がらないほど重くて品質がいい、褐鉄鉱の方は軽石みたいに軽くて品質も落ちるね。磁鉄鉱は脆さが全然ないですが、褐鉄鉱は脆くて落盤しやすい。その間に接触鉱床っていう軟らかいところがあって、それが石灰の場合は落盤の危険性があったですね。
磁鉄鉱って石はそりゃあ重たくってチッとやソッとじゃ持ち上がらない。
品質のいい磁鉄鉱が一面にある鉱山の中に入った場合、時計が全然動かなくなってしまう。方向斜度を計るクリノメ−タ−も動かなくなってしまう。磁鉄鉱を金槌で叩くと髭みたいに鉄の粉が立ってくる。そりゃあ凄いもんです。
昭和16年に褐鉄鉱の中から山椒魚の化石がでてきました。
そりゃあ苦労してついている石をはがして、第二小学校へ教材として寄付しました。

今どうなってるかね。あれは本当は手元に置きたかったね。

掘った鉱石は坑道の中からトロッコで運びだした。今なら鉄だけど、その頃は木のレ−ルで薄い鉄板を敷いてあるわけ。褐鉄鉱とか何百貫も入れてね、中から広い所へ運びだして、空けて選別していた。
鉄索も二つあってね、褐鉄鉱と磁鉄鉱それぞれ専用の鉄索で下ろしてた。
それで木炭車で小海の昭和電工に運ばれて製鉄されてましたね。

選別は女の人がするですけど、地元の女の人もたくさんきて仕事をしていました。
坑道の長さは定かではないが200mから300mはあったですかね。
信玄の頃と同じところを掘っててね、その坑道もあったけど、信玄は金しか掘らなかった、どういうことですかね−。
鉄鉱石を掘った後の石灰石は肥料になるので少しは採掘しましたが採算が合わなかったですね。
そして俺は昭和17年から4年ほど兵隊へ行ってきました。

昭和25年になって住友金属がはいってから大規模に掘りましたね。
私はその時鉱山の経験があったから紹介されて職員になって仕事をしました。
その頃はもちろん大規模に掘ってたから福島の方からも人夫が相当きていて、四工場の、今の町田の平全部に人夫の長屋と食堂と飲み屋まであって、第二の梓千軒というくらい栄えたね。

<金山の話>
金山の話をしますと、当時、梓久保でおらたちが鉱山を掘ってる頃からそれより奥の長尾金山で(地獄谷より奥)東京の有吉喜兵ヱさんという人が金を専門に掘っていました。
堀った鉱石を馬方の運送でもって四工場へ持ってきて下ろして、トユが作ってあって、ドッと空けて、空けたものを機械で砕いて粉にしたものを水と混ぜて沈殿させてて金を取っていたですね。
金の鉱脈はどんなにいい金が出ても狭いと採算が合わなくてね、この鉱山では50〜80cmの鉱脈で1tの鉱石の中に90gの金があれば最高で、1t掘って10gや20gでは割りに合わない。

<信玄の金山>
武田信玄が金を掘っていた穴を調べると、松明で明かりを点して掘っていたようで、坑道の壁に穴が開いていて松明を差し込むところがありました。
堅い所はやっと人が通れるくらいしか開いてなくて、途中まで入ったけど、上へ掘ったり下へ掘ったり横へ掘ったり、地獄谷っていうとこはそれは本当に無駄なことはしてないですね、生活の知恵っていうかあるところばかり掘ってあった。
どうして掘ったですかね、ノミとかがあるわけじゃなし、何か・・・。
坑道の中の下へ掘ったところは、長い年月に水が溜まってあふれてて、何としたってよけて通ったですけど、石を投げればゴオ−と音をたてるところもあって、落ちたらえらいことになっちゃう。
住友金属になってからは駄目な所はみんな蓋いであります。
梓山から川端下へ抜ける坑道があったというのは信玄の頃のもので、町田を0として480mは一番高い所で、中間に190m、280m、320m、450mとあった。住金で調べてみたが全部掘り尽くしてあったね。
川端下側は水晶なんですけどね、水晶といっても透明でなく濁っていてね、その代わり緑黄石というきれいな石がでました。
いずれにしても最初の梓千軒といわれた頃の信玄時代の土台の石がまだありますよ。

町田から僅か500mいった所の左側の大きい石です。

<鉱山の女人禁制、信仰>
鉱山が女人禁制っていうのは信玄の頃からそうですね。中に女の人は入れない、今も土俵の上に女の人が上がってはいけないっていうようなもので、これだけは厳しかった。
女の人は通いで四工場まで歩いて2キロ半、2500m、それから鉱山に上がるまで一時間かかるね、毎日毎日通ってきてました。もちろん冬も、一年中です。
山の神はやはり鉱山も17日がそうでした。その日は休みで飯場あたりが賑やかになって、一杯やってね。
山の安全を祈って坑道の入り口にはしめ縄をして、鉱山は神聖な場所でした。
有吉さんという人も金山の入り口にお宮を建ってね、そこには掘った鉱石を奉ってあった。

<山師が金のある山を見つける目安は>
まず一番は転石を調べた。石英斑岩であるとか石灰岩であるとかを目安に。
もう一つは頂上へいって露頭を探す。それには必ず接触鉱床をみて。鉱物っていうのは金があれば銀もある、銅もある、鉛もあるっていうようですからね。
採った石を家へ持ち帰って石臼の中でコツコツ粉にしたものを、お吸い物椀に沈めて何があるか見ます。
金は一番重たいから最後に残ります。
いずれにしても金は素晴らしいものです。
比重が10から11の銀1gを延ばしたら220m延びて、比重が倍の金は1gで2000m延ばすことが出来る。   (一同ドッとどよめく)

<金がまだでる可能性は>
 川上はもう掘り尽くしたね。
 これからまだ金がでる可能性があるっていうなら、随分行ったですけど黒森あたりですかね。あの辺も信玄が掘った跡が随分あった。

<一攫千金を夢見たことは>
もちろんありましたね。

<秩父古生層については>
マンガンにしても鉄にしてもそうですけど三角で結ぶ点上にあるといわれて、なるほど結ばれたところにある。はっきり専門的なことは言えないですが、ひととこを見つけると三角点を見つけていけば必ず見つかる、何かあるね。

<落盤事故とかは>
 ええ、そういうこともありました。それは金の所は接触した所が脆いからね。
 石灰の洞窟があって、5尺も6尺もあるつららが垂れてるところも在って、そういう場所は一番危ない。
 俺自身は危ないことはなかったね。

<中の明かりは>
最初はカ−バイドだった。そしてカンテラから住金の時はもう電気がはいっていたね。削岩機もあってね。

<久人さんの仕事、役目は>
みんなが掘ってる時でも、鉱山で労働しないでもよかった。石を拾ってきたやつを潰して分析したり、ダイナマイトを買いに行ったりするようなことをしていましたね。

爆破するダイナマイトはリュックを背負って買いに行った。(リュックで!の声声)

そんなこと、今考えても恐ろしい(笑)。小海線に乗って今の馬流で降りて店まで歩いてね、一週間分くらいを背負って駅前の小海食堂で酒飲んでた。だれも知らないからね、ダイナマイト背負ってるなんて。うちへ持って帰ってきても鉱山の時間が合わなきゃ、そんでうちへ置いておくわけです。次の朝持って行った。
今考えたら恐ろしい、ダイナマイト持ってるなんて言えないしね、そんで酒飲んでるなんて全く恐ろしい。
  (大爆笑)
鉱山を探しには一番遠くは茨木まで行ったね。
母ちゃんの妹が東京で看護婦やっててね、出張費浮かせるために、山へ行くでかいリュック背負ったままその寮へ泊めてくろって。
そこへ泊まりゃあタダだからね(笑)

大変だったことっていえば食料難。戦争中で飯場もみなくちゃならなかったので人夫の食べ物が大変だった。自分が直接関わらなかったですが、八百屋も行ったね。

<鉱山の終わり>
昭和30年に住金が引き上げて、その後下請けが1年ほど依頼されて、終わった時は坑口に石を積んで蓋をしたですけどね、でも石が欲しい人が来てみんな崩して持っていっちゃった。
昔の坑口はズリ(坑口から石を捨てた跡)がナギ(山で薙ぎ落としたように崩れた所)になってあるのでそこを辿れば行ける。
大深山はまだ何か出るかもしれないね。大深山田んぼの松の木の山側は、役場から見ると今でもズリの跡が見えるね。
今、鉱山の案内?もう無理だね、80だもの。町田からまだ480mも上がるだもの。
 
後記
私たちの全く知らない川上村の姿、久人さんはそんな時代を生きて、今の私たちと武田信玄までの時代をタイムトンネルのように一気に結んでくださいました。
信玄の坑道を辿る時、久人さんも他の方々もきっと昔の人の息遣いをまざまざと感じたのではないでしょうか。
持参くださった珍しい鉱石の数々、特にピカピカに輝く糸金は目が眩みそうでした。

細かく記されたノ−トや当時の写真。本当はもっといっぱいあったのに、以前借りにきた人に貸したら返ってこなかったと残念そうでした。
とても微笑ましいことは、久人さんの家の庭に当時の石がいっぱい置いてあるのを、お孫さんも石が好きらしくて何でも叩いて歩いて、水晶なんかも尖んがっていいのをみんな欠いてしまうとか、血は争えませんね。
貴重なお話本当にありがとうございました。
 
この文は久人さんのお話内容はそのままですが構成しました。


文責  中嶋初女